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1. Chorzów(2016年10月)

 有名な国際法判例にChorzów工場事件があります。発音が大変難しく、「ホルジョウ」「ホルジョワ」「ショルゾヴ」「ホジョフ」と表記も多様です。ちょうどクラクフに滞在中の2016年10月に現地に行ってきました。ポーランド人に聞くと「ホジョフ」と「ホジュフ」の間に聞こえますが、ゆっくりとしゃべってもらうと、最後は「ウ」と「ヴ」の間で、日本語では正確な表記はできません。最初も「クォ」と「フォ」の間のようで、とても「ホ」ではありません。ということで、無理に日本語表記すると「ホジュブ」工場事件となりそうです。ちなみに「ホジュブ工場」は固有名詞ではなく、上部シレジア窒素化学工場(Oberschlesische Stickstoffwerke A.-G.)とバイエルン窒素工場(Bayerische Stickstoffwerke A.-G.)を併せた呼称です。現在、前者は別名の会社になっています(写真参照)。また、ホジュブ市は現在、シレジア公園(県立文化余暇公園 Wojewódzki Park Kultury i Wypoczynku)という都市公園で有名になっており、重化学工業の中心地の面影はありません。工業地時代の面影を見たい方は、カトヴィツェ(Katovice)にある「シレジア博物館」(Muzeum Śląskie / Silesian Museum)がお勧めです。

2. 「海賊とよばれた男」(2016年12月)

 百田尚樹の原作の映画化。主人公の国岡鐡造は出光興産創業者・出光佐三をモデルとした人物です。ストーリーは、国岡商店(出光興産)が戦後復興期の石油需要に乗って大企業に成長する過程を描いたもので、石油メジャーとの対決(特に日章丸事件)が見どころです。さて、この映画は神戸大学にも国際法にも大変深い関係があります。まずは神戸大学との関係ですが、出光佐三は神戸高等商業学校(現神戸大学経済学部)出身です。六甲台キャンパス内にある「出光佐三記念六甲台講堂」は、出光興産の助力で再建されたものです。また、映画の一部が神戸大学の「兼松記念館」で撮影されています(兼松記念館内の私の研究室のちょうど前で撮影されており、映画中に登場します)。国際法との関係ですが、作中で、ICJに付託されたアングロ・イラニアン石油会社事件及び日章丸事件が出てきます。

❖ 神戸大学経済経営研究所 公開シンポジウム「海賊の選択:出光佐三の企業家精神」(社会システムイノベーションセンター共催):2017年1月23日

3. 神戸開港150年(2017年2月)

 安政5年(1858年)、江戸幕府は諸外国と安政五条約(日米修好通商条約等)を締結し、横浜、長崎、函館、新潟、兵庫の開港を約束します。兵庫津(現在の神戸港)は慶應3年(1868年)に開港しましたので、今年1月1日で神戸開港150年です(正確には150周年は2018年ですが、神戸市が1年早めて設定しています)。兵庫開港にあたり、日本人と外国人の間の紛争を避けるため、外国人居留地が当時の兵庫市街地から3.5km東の神戸村(かんべむら)に造成されます(後に1879年の勅令で「神戸港」になります)。さらに、開港後は外国人の増加によって居留地用地が不足したため、明治政府は居留地の他に日本人と外国人の雑居地区を認めました。これにより、山手の高台に外国人住宅である異人館が数多く建設されました。これが神戸の観光名所となった北野異人館街です。

❖「近代にみる港町の神戸大学―神戸開港150年記念―

  神戸大学社会科学系図書館 2017年2月6日~2月24日 

4.  金門島(2017年3月)

 厦門(アモイ、Xiamen)に滞在中に金門島(台湾金門懸)に行ってきました。厦門から約2km、船で30分、日本の小豆島程度の広さです。渡航許可証はフェリー乗場(五通客運碼頭)ですぐに発行してもらえます。金門島の見どころの1つが古寧頭戦史館です。1949年に中華人民共和国が樹立されると、国民党政府・軍は台湾に逃れますが、金門島を要塞化し、死守します(古寧頭戦役)。大陸側(厦門)からほど近い島1つを人民解放軍が攻略できなかったのが不思議ですが、古寧頭戦史館のビデオ解説(日本語あり)で背景が詳しく説明されています。また、近年は「金門戦地文化」として世界遺産申請の動きもあります(台湾は世界遺産条約に非加盟ですが、世界遺産登録の可能性はゼロではありません)。

5. 「黄金のアデーレ―名画の帰還」(2015年)(2017年5月)

 絵画返還訴訟(実話)の映画化。墺の画家クリムト(Gustav Klimt)の描いた肖像画『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I』は、在ウィーンのブロッホ=バウアー家(ユダヤ系)が所有していましたが、ナチス・ドイツに略奪され、大戦後は墺政府が保有していました。絵の所有権者であったフェルディナント・ブロッホ=バウアー(アデーレの夫)の遺言状では、マリア・アルトマン(アデーレの姪)が肖像画の相続人に指定されていました。アルトマンは、墺での返還訴訟を断念し(135万米ドルの提訴費用のため)、2000年に墺政府を相手に米国内で返還訴訟を提起します。最大の争点は、1976年の外国主権免除法(the Foreign Sovereign Immunities Act: FSIA)の遡及適用でした。2004年の米国最高裁判決は遡及適用を認めた上で、1605条(a)(3)(免除例外)を根拠に裁判管轄権を肯定しました。そこで、アルトマンと墺政府は(交渉の末)紛争を仲裁裁判に付託しました。仲裁裁定(2006年1月)は墺政府の絵画所有権を認めつつ、連邦美術品返還法(1998年)に基づき、アルトマンへの絵画返還を命じました。同年3月に肖像画が返還され、6月には156億円(当時史上最高値)でエスティ・ローダー社社長ロナルド・ローダー氏に売却されました。現在はノイエ・ガレリエ(ニューヨーク)に展示されています。

6.  家屋税事件(2017年5月)

 日米修好通商条約(1858年)は、日米通商航海条約(署名1894年、発効1899年、通称「陸奥条約」)によって失効します(「条約改正」)。旧条約時、外国人の土地所有が禁じられていたため、外国人居留地は「永代借地」(leases in perpetuity)の形で貸与され(永代借地約定書は神戸大神戸開港文書で検索可能)、課税免除されていました(ただし、領事裁判権に基づく事実上の免税)。新条約で居留地が廃止(日本に返還)されますが、永代借地と課税免除は維持されます(1896年日独条約18条4項、1896年日仏条約21条4項、1894年日英条約18条4項)。日本政府は、課税免除対象は土地(land)に限るとし、1901年に永代借地上の建物(buildings)に家屋税を課します。英・仏・独は、建物も免税対象であると主張し、紛争を常設仲裁裁判所に付託します(家屋税事件 Japanese House Tax Case)。判決(1905年5月22日)において日本は全面的に敗訴しました。

7.  バルセロナ・トラクション会社発電所跡地(2017年8月)

 有名な国際法判例にバルセロナ・トラクション電力会社事件(1970年ICJ判決)があります。1911年にカナダで設立されたバルセロナ・トラクション電力会社(Barcelona Traction, Light and Power Company Limited (BTLP) / Barcelona Tracció, Llum i Força S.A.)は、スペイン・バルセロナにおいて発電・送電事業を行っていました。1948年に社債利息未払を理由としてスペイン裁判所で破産宣告を受け、債権者に売却されます。そこで、(会社の国籍国であるカナダではなく)多数株主企業の国籍国であるベルギーがスペインを相手に提訴したのが、ICJのバルセロナ・トラクション事件です。フランコ政権下、カタルニア電力会社(Fuerzas Eléctricas de Cataluña: FECSA)がBTLP社を取得します。現在、BTLP社発電所の跡地は「三煙突公園」(Jardines de las Tres Chimeneas. カタルニア語でJardins de les Tres Xemeneies)となっており、当時を偲ばせる巨大な三連煙突と発電所備品が残されています。

8.  Gabčíkovo 水力発電ダム(2017年12月)

 有名な国際法判例にガブチコヴォ・ナジュマロス計画(Gabčíkovo-Nagymaros Project, G/N)事件(1997年ICJ判決)があります。正確には、「ガブチコヴォ」ではなく、「ガプチーコヴォ」と発音するそうです。ガプチーコヴォ(G)はスロバキアに、ナジュマロス(N)はハンガリーにあります。ブタペスト条約(1977年)において両国(当時はチェコ・スロバキアとハンガリー)はダニューブ川でのダム建設と稼働について合意しますが、ハンガリーがN計画を停止・放棄し(1989年)、ブタペスト条約の終了を通告します(1992年)。また、チェコ・スロバキアの方もG計画の代替策である「暫定的解決」(ヴァリアントCと呼ばれる水路建設)を開始し(1991年)、稼働させます(1992年)。ダニューブ川の水路・航路が変動したことから、両国間の紛争となりました。審理中の1995年に、スロバキア側代理人(後のICJ所長H. E. Peter Tomka氏、当時は外務省法律顧問)がICJ判事による現地視察を要請し、1997年4月1~4日(口頭弁論第1ラウンドと第2ラウンドの間)に初の現地視察が実施されました。

 

9.  オスカー・シンドラーの工場(2017年12月)

 第二次大戦中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラー(Oskar Schindler 1908~1974年)は、ドイツ軍将校との人脈を利用して多くのユダヤ人労働者の雇用(実際は無給)に成功しました。シンドラーの経営するホーロー工場(ポーランド・クラクフ郊外)では、数多くのユダヤ人が働いており、強制収容所への移送を免れていました。ところが、大戦末期にドイツが「最終的解決」(ユダヤ人ホロコースト)を急いだことから、シンドラーはユダヤ人労働者をブルニェネツ(現チェコ)の工場に移転させます。その際の人選リスト(約1200名分)が「シンドラーのリスト」です。映画「シンドラーのリスト」(米、1993年)で詳しく描かれています。移転前の工場は、現在ではクラクフ歴史博物館(オスカー・シンドラーのホーロー工場 Fabryka Emalia Oskara Schindlera)になっています。また、クラクフ旧市街に隣接するカジミェシュ(Kazimierz)地区には、映画の撮影現場となったユダヤ人街やゲットー跡が残っています。なお、映画「シンドラーのリスト」の舞台となった強制収容所は、アウシュビッツ(オシフィエンチムOświęcim )=ビルケナウ絶滅収容所ではなく、プワシュブ強制収容所(Niemiecki Były Obóz Koncentracyjny Płaszów)です。

 

10.  グレート・ベルト海峡大橋(2018年2月)

 ある程度有名な国際法判例にグレート・ベルト海峡通航事件があります。デンマークのグレート・ベルト海峡(幅18㎞)に架かるグレート・ベルト・リンク(別名:ストアベルト橋Storebæltsbroen)の架橋工事には10年(1988~98年)の歳月を要しました(施工主鹿島建設他)。グレート・ベルト海峡とリトル・ベルト海峡の架橋を通じてデンマークと欧州大陸を直結させる国家プロジェクトです。ところが、工事中の1991年、フィンランドが自国「船舶」(実際は石油掘削リグ)の通航権を主張してICJに提訴し、建設中止を求める仮保全措置を申請しました。口頭弁論中、橋梁による「物理的障害は1994年末以前には生じない」とデンマークが確約したため、ICJは仮保全申請を却下します(1991年7月29日命令)。その後、デンマークが補償金1,500万ドルをフィンランドに支払うことで両国が合意し(1992年9月3日)、フィンランドが訴えを取下げました。ロイヤル・コペンハーゲンの陶磁器に描かれる3本の波線(ペインターサイン)は、デンマークの3つの海峡(グレート・ベルト海峡、リトル・ベルト海峡、ズンド海峡)を意味しています。

 

11.  ニュルンベルグ軍事法廷(2019年8月)

 第二次大戦中のナチス・ドイツによる戦争犯罪を裁くための国際軍事法廷がニュルンベルグ軍事法廷です。正式名称は、「国際軍事法廷における主要戦争犯罪人裁判」(Trial of the Major War Criminals Before the International Military Tribunal: IMT)です。現在は、ニュルンベルク法廷記念館(Memorium Nuremberg Trials)として保存・公開されています(Court Room 600として現在も法廷として利用されています)。法廷場所としてニュルンベルグが選ばれたのは、1933年以降、一貫してナチ党党大会(全国党大会)が開催された場所であり、ユダヤ人から公民権を剥奪した「ニュルンベルグ法」が制定された場所であったためです。ナチス・ドイツを象徴する都市であり、ナチスの過去を断罪するという連合国の強い決意が示されています。法廷跡とは別に、ナチ党大会の大会議堂跡が「帝国党大会会場文書センター」(Dokumentationszentrum Reichsparteitagsgelaende)として残されており、ナチス関連の膨大な資料が展示されています。

12.  ウィッテンブルグ城(2019年10月)

 冷戦終結後、ココム(対共産圏輸出統制委員会COCOM: Coordinating Committee on Multilateral Export Controls)の構成国は、1994年にココムを解消し、ココム規制リストを引き継ぐための新たな枠組のための協議を始めます。協議の場所は、オランダ・ハーグ近郊のワッセナー(ヴァッセナール Wassenaar)にあるウィッテンブルグ城(Kasteel de Wittenburg / Wittenburg Castle)でした。現在も宴会場やホテルとして利用されています。協議の結果、1995年12月19日、「通常兵器及び関連汎用品・技術の輸出管理に関するワッセナー・アレンジメント」(the Wassenaar Arrangement on Export Controls for Conventional Arms and Dual-Use Goods and Technologies: WA)の合意に至ります。同日、ワッセナー・アレンジメント最終宣言がハーグの平和宮で行われました。1996年7月の設立総会において正式に発足し、その後、事務局はウィーンに置かれています。2019年7月1日に日本政府が発表した対韓国輸出管理(個別輸出許可の要請)の対象3品目のうちの2つ(フッ化ポリイミドとレジスト)はWA規制リスト(List of Dual-Use Goods and Technologies and Munitions List)に掲載されています。

13.  ゲント市庁舎(2020年2月)

 1873年9月8日、11名の国際法律家がベルギーのゲント市庁舎(the Ghent Town Hall)に集い、いかなる政府からも独立した組織として万国国際法学会(Institut de droit international)を設立しました。設立会合が行われた場所は、ゲント市庁舎の中の「兵器庫」(Salle de l’Arsenal / the Arsenal Hall)と呼ばれる部屋でした。元々この部屋は「市民代表(collation)ホール」と呼ばれていました。Collationとは、自由市民、織工、商人の代表であり、この部屋で政治と財政の議論を行い、ゲント市助役に対する助言を行っていました。この点だけ見ると、いかにも万国国際法学会の設立に相応しい場所のように思えます。ただし、1540年にカール5世が市民代表制度を廃止した後、この部屋は「武器庫」として使用されていました。現在は使用されていませんが、当時のままの姿を見ることができます。なお、万国国際法学会の本部は固定されておらず、事務局長(Secrétaire-général)の所在地に応じて移動しています。

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